魚の棚通町内会 由来

 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、その後、藩政を敷き、尾張藩藩主に九男の徳川義直を置きました。そして、幼かった義直に代わって自ら尾張の国づくりに着手し、尾張の中心地をそれまでの清州(清須)から那古野(名古屋)に移すために名古屋城の築城にとりかかりました。
 工事は1610年(慶長15年)から始まり、1612年(同17年)にほぼ完成。この築城に伴い、武家、町屋、寺社、橋梁に至るまで、清州のまちを丸ごと名古屋に引越しさせる「清州越し」が行われました。

魚の棚 基盤割

 名古屋築城とともに城の南に町人地が整備され、清州をはじめ各地から商人など多くの人々がここに移り住みました。この町人地は、南北12本の通りと東西10本の筋の間に一辺の長さ五十間(約100m)の正方形の区画が整然と並んでいたことから「碁盤割」と呼ばれました。
 そんな碁盤割区域内の東西道路のうち、北から2本目にあたるのが「魚の棚筋」です。この筋は、清州の永安寺門前から移された町があったことから「永安寺筋」と名づけられましたが、本町通の東西のあたりで魚を売る店が多かったため、俗に「魚の棚筋」(うおんたなすじ)と呼ばれるようになりました。

魚の棚通町内会 変遷

 当町内会が位置する本町通以東の魚の棚筋(永安寺筋)は、清州越し以降、「永安寺町」と呼ばれていました。前述のように、清州の永安寺門前の町家が移ってきた町であったことからこの名が付けられたのですが、永安寺そのものはこの地には移されず、禅寺町(東区)に移されています。
 江戸時代を経て、明治4年(1871)になると、「永安寺町」は伊勢町筋を境に分割され、東の三丁が「東魚の棚町」、西の三丁が「西魚の棚町」に。さらに明治9年(1876)には、それぞれ「東魚町」、「西魚町」に改称されました。そして、昭和41年(1966)の新住居表示により、両町ともに「丸の内三丁目」となり、現在に至っています。

本町通 魚の棚筋

 江戸時代、同じ魚の棚筋(永安寺筋)でも、本町から桑名町の間(当町内会区域の西隣り)は「小田原町」、さらにその西の桑名町から堀川までは「車之町」と呼ばれていました。
 「小田原町」は、清州越し当時は「東一丁目」でしたが、1600年代半ばに「小田原町」と改名。江戸の「魚屋町」が「小田原河岸」と呼ばれていたところから、この町名が付いたといいます。
 また、「車之町」は、当初「一丁目」と呼ばれていましたが、この町から那古野神社の例祭「天王祭」の台尻車を出していたことから、こちらも1600年代半ばに当初の「一丁目」から「車之町」という町名に改名されました。

昔の地図 名古屋市博物館
名古屋城下デジタル復元地図(名古屋市博物館提供)